南濱墓地 墓石調査 Sブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。


Sブロックには意外な大物が控えています。


右側より順に
S-1  木製祭壇があるのはここだけです。

S-2  正面  教誓   教善
        尼妙誓  尼妙善
    右側面  了念   尼妙智  妙宗
          尼了閑  宗敬
          宗意   尼妙信  妙智
    左側面
    裏面   文政六癸未八月立(1823)
            誓順
    台座   三田屋
         忠八
    花立   名村氏      墓に比べて新しいので別の墓のものでしょう。

S-3  正面  ●受
        妙喜
    台座  桑庄        本庄を間違えたのでしょうか?


S-4  正面  安永三甲午年(1774)
         知圓
         二月十三日
    台座  桒庄         本庄の異体字です。
                   墓地で最も綺麗に残る地蔵です。


S-7  正面   本多直子墓
    左側面  ●化四丁卯年            丁卯となるのは文化4年(1807)
          ●月十一日  釈乗誓
          ●化四丁卯年
          ????   釈妙清
    右側面  寛政九丁巳年五月十八日(1797)   釈貞高
         寛政十一乙未年九月五日(1799)   釈知重
         寛政十二●申年十二月十一日(1800) 釈知幽
    裏面   ???
    台座   桑名
                   この時代に女性が俗名で葬られるのは数少ないはず。
                   裕福な家でしかも桑名藩の武家の娘か。
                   気になるのは、10年間に5人も亡くなっていることです。
                   何があったのでしょうか。
                   問題は左右に5人も追加されていることです。
                   男なら独立した墓になぜしなかったのか?
                   答えは、生まれた子が幼い内に亡くなったからでは?
                   それで直子が生前から一緒の墓にするよう遺言していたと妄想するのです。


S-25  正面  清音  勝音  嘉信
          妙音  妙住  貞信
    右側面  ??
    台座   鉄三郎
          勝治郎

S-24  正面  教了  ????
              ????
         教誓 天明三癸卯歳(1783)
              九月初二日
         知誓 寛政●●●
             七月●●●
    右側面  ?????
           ???思ひし??をかしく
           ????か????ふ
           あ??????        歌があるのですが読めません。
    左側面  俗名  杉野勇蔵墓
    裏面   教貞  天明八申三月六日(1788)
           誓廣  寛政四子六月廿八日(1792)
           知廣  寛政四子十一月十四日(1792)
    蓮華座
    台座   津村●之町
           杉野

 
S-24


雑然としているのは、墓石が押しのけられたせいでしょう。


   中央   正面   但誉了念信士
             慈観童子
             了誉妙御信女
        左側面  北野村 大道新兵衛
        右側面  宝暦四戌年二月●
        台座   ●東

   五輪塔  左側面  ●●●●(梵字)
        台座にも多数の文字が刻まれています。

   五輪塔とその右側の墓が1枚の敷石に並んでいます。


   正面   光然清流信士
        光屋妙流信尼
        ●葉紅林信女
        観阿妙法信女
   左側面  練達浄心信士
        恵香童女
   右側面  紅安信士
   台座   高●●


S-17  火炎を背負う不動明王です。火炎は余り傷んでいないのに、像と台座の痛みが激しいです。
   台座正面   露光童女
          安永八己●●(1779)
          呂少墓
          九月六日
          光安●●


   台座  左側面   寛保元年(1741)辛酉九月廿四日
   海老屋安兵衛が早世した子のためこの不動明王を彫ったのでしょう。
   ただ、2点がよくわかりません。
      呂少が誰なのか
      側面にある寛保元年は何の日付なのか


   裏面に  尊像彫刻師 海老屋安兵衛  自作之
   難波丸綱目にはこの名前は見つかりませんでした。
   京都市中京区に仏師、仏絵師、截金師が集まる海老屋町があります(今も)。安兵衛はここから出たのでしょう。